毎日の図書館学

初めて図書館学に触れる学部1年生を想定して図書館に関係ありそうな本を毎日1冊ずつ300字程度で紹介します。

ベンチの足

「問題化する、そして外に引っ張り出すということは、どういうことであろうか。それは、言語化する、視覚化する、ということに他ならない。一旦、言語化あるいは視覚化したものなら、他人にも扱えるものとして外在化するのである。では、どうしたら外在化できるか」。そのためには「問題を見つける問題」を課題にしてみたら良い。問題の発見・問題の言語化のテンプレートである。「ある考えやものの見方を見つけると、それまで繋がっていなかった事が繋がる。そして、それが達成されたあかつきには、面白さを覚えたり、時として衝撃さえ生まれる」。ものの見方を変える。ものの使い方を変えてみることで、そこに新しい価値を付け加えていく。

calil.jp

私の絵本ろん

「絵本づくりも、編集者、作家、画家、印刷所、製本と、一冊の本は共同制作だと思う。したがって私のやり方は、与えられた作品のねらいは何か──というところからはじまる。そして作家と話し合う。それで自分なりの視覚的な解釈をもつ。その解釈にもとづいて、どう表現するかを考える。編集者の意見も、作家の意見も尊重する。そして最後的には、私の絵としてなりたたないものは、整理する」「子どもの絵本というものは、きわめて大衆的なものだと思う。しかし、大衆的だからといって、卑俗であってはならない。絵かきは高邁なる精神で絵をかかねばならない」。絵本とは何か。絵本の絵を描くこととはどういうことか。絵と文字の違いとはなんだろうか。

calil.jp

知はいかにして「再発明」されたか

「大思想にしろちょっとした考えにしろ、およそ人間が考えたことは、なんらかの制度によって組織化されてはじめて影響力を持つ。しかも強力な思考のなかには、誰がどこでどのように知を追求し、その達成をどう評価するかといった、人々の知の探求方法を再構成する力を持つものもある」「知識人たちが知を追求するために構築した建造物は実に多種多様だが、使ったのは、ほかの職種の制度と同じ、弁舌と執筆、イメージと物体、限りある空間や経年の荒廃を防ぐための貯蔵といった素材だった」。知識が蓄積・活用されていく場所は、歴史のなかで図書館・修道院・大学・文字の共和国・専門分野・実験室と変遷していく。そしてインターネットに至るまで。

calil.jp

「モノと女」の戦後史

過去に「主婦の生活に潤いを」「洗濯しながら本が読める」「主婦の読書時間はどうしてつくるか」といった広告のコピーがあった。1948年から1950年頃の洗濯機の広告に登場する。当時の電気洗濯機はあまりにも高価であり、売る側にも買う側にも「なぜ電気洗濯機が必要なのか」の大義名分が必要となったためである。洗濯機は「家事労働を軽減させただけではなく、炊事をしながらの洗濯、洗濯をしながらの掃除」をも可能としたのである。また、公共施設におけるトイレ事情も指摘されている。同じ面積なら男性用よりも女性用トイレのほうが便器の個数が少ない。女性の来訪のほうが多いデパート、保健所、福祉センター、そして図書館も女性用トイレのほうが数が少ない。女性の側からモノの必要性が認識されてこなかったのである。

calil.jp

日常的実践のポイエティーク

「読むという活動は、ページを横切って迂回しながら漂流をする。テクストを変貌させつつ、その歪んだ像をつくりだす目の旅だ。何かふとした語に出会うと想像の空を駆け、瞑想の空を駆ける。軍隊さながら活字が整列している本の表面でひょいと空間をまたぎこえる。つかの間の舞踏──こうした活動をたどって分析してゆくと、少なくとも第一に浮かびあがってくることは、読むことのできるテクスト(本、イメージ、等々)と読むこととを分けへだてるような区分などがつけがたいということである」。読むこと、歩くこと、物語のこと。私たちは日常にあるものを日々消費している。「ものごとをあやつり、享受して楽しむ術とはなにか」を考えてみる。

calil.jp

視覚障害教育の源流をたどる

視覚障害者が点字によって文字を読む。では点字が発明される前はどういう方法で文字を読むことができたのだろうか。その方法をどうやってつくり出しただろうか。視覚障害教育のための学校がつくられる。読み書きをするための道具、算木・算盤などの数を計るための道具、地球儀や地図などの世界に触れるための道具、体操図やオルガンなどの体育・音楽のための道具など。「弱視教育が開発してきた視覚的認知のトレーニングが読み書きの苦手な学習障害児に有効なのではないか」「ユニバーサルフォントの研究・開発が、弱視者・高齢者などに限らず、すべての子どもにとって読みやすい学習環境をもたらす」。教育教材の創意工夫が新たな可能性を見出していく。

calil.jp

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

「かつてないほど清潔で、健康で、不道徳の少ない秩序が実現したなかで、その清潔や健康や道徳に私たちは囚われるようにもなった。昭和時代の人々が気にも留めなかったことにまで私たちは神経をつかうようになり、羞恥心や罪悪感、劣等感を覚えるようにもなっている。そうした結果、私たちはより敏感に、より不安に、より不寛容になってしまったのではないだろうか? 清潔で、健康で、安心できる街並みを実現させると同時に、そうした秩序にふさわしくない振る舞いや人物に眉をひそめ、厳しい視線を向けるようになったのが私たちのもうひとつの側面ではなかったか?」。昭和・平成・令和へと時代が変わる。以前は気にならなかったことが気になる社会に私たちは暮らしている。

calil.jp

書物と製本術

「書物を読む読者は増加したとはいえ、十七、十八世紀において趣向を凝らした革装を持つことができるのは、社会的身分のある裕福な人びとであった。貴族の間でも経済的格差があり、金箔押しのデザインを含めて装幀の質はさまざまであったが、本は書物を読むという目的を超えて貴重品として扱われた。書物を大切に保管するのは、第一に保存の目的であったが、第二に装飾と差別化という社会的な体面の目的があったと考えられる」。王令によって仮綴じの書物と製本が区別され、書籍商と製本工房の組合が分かれることとなる。仮綴じの書物を購入し、読者の好みに応じて製本が依頼される。フランス装へとつながっていく。紙の束をどのように綴じていくのかという技術の発達と制度のあり方が書物の形にも影響を及ぼしていく。

calil.jp

人物図書館

「図書館は人を育む場でありながら、私は人を知ろうとしなかった。働くとは交わる事である。しかし日々同じ言葉で語り、同じものを見ているのに意志が通じない。それは私が見ているものとあなたが見ているものが、実は違うのではないか。ものの見方が違う。そういうことに思い至った」「図書館員だけで図書館を創っているのではない。様々な、多様な関係者がいて成り立っている。だから図書館を全体としてみることが大事な点である」。サブタイトルに「ひとはだれでも一冊の本である」とある。私も本。あなたも本。誰もがみな一冊の本。私は自分のことを語る。自分の言葉で語る。そしてあなたも。人物図書館という取り組みから図書館の形を考える。

calil.jp

レトリック感覚

「「いま私はバルザックを読んでいる」という文章は、全然レトリカルな感じがしない、ごく常識的な表現だが、そこにも換喩が働いている。「バルザック」は人名であり、人間である。しかし、私はいま人間を読んでいるのではなく、また人間の顔色を読んでいるのでもなく、人間とは似ても似つかぬ書物を読んでいるのだ。ただ、その作品と作者は、いわば親子のようなきずなでつながっている」。私たちはものごとを何かに喩えて話をする。修辞という訳語ができあがる過程もたどりながら、直喩・暗喩・換喩・提喩などのさまざまなレトリックを説明する。「レトリックは、言語の常識的ルールにわずかにさからってもいいから、あえて意識の真相を忠実に表現しようという工夫でもあった」。

calil.jp